浦本浙潮師のお墓参り

2017年9月11日(月)

浦本 浙潮(うらもと せっちょう・本名 政三郎 まささぶろう)
明治24年(1981)5月21日生 昭和40年(1965)10月8日没 享年74歳
山形県出身。元荘内藩士榊原家三男として生まれるが中学時代より熊本の浦本家に入る。
京都帝国大学卒、医学博士としてその生涯に多大な功績を残す。
荘内日報:浦本政三郎
尺八家としては主に小梨錦水・小林紫山に師事。
他にも津野田露月・宮川如山らにも師事、谷北無竹・谷狂竹とは特に親しかった。
(谷狂竹が奈良地方を虚無僧行脚中、村田扇翁という虚無僧から入手した曲に
「大和調子」と命名したのが浦本浙潮)
東京本郷の喜福寺で全国の尺八家を集めて演奏会を開いたり
機関誌「普化道」の刊行、「三曲」「明暗」への寄稿など
大正から昭和初期にかけての普化尺八界で活躍した。
民謡にも後藤桃水に師事するなどして関わり日本民謡協会初代理事長を務めた。
(日本民謡協会から「浦本浙潮の尺八」としてCDが発売されている。)

参考文献:「尺八本曲と古管尺八を愛好された浦本浙潮先生」稲垣衣白編

上記のように普化尺八に深い関わりのある浦本浙潮師ですが
私が勉強している「布袋軒産安」も元はといえば浦本浙潮師が
小梨錦水師から伝承しそれが伝わったもの。
私の先生の先生の先生のそのまた先生に当たられる方です。
(小梨錦水-浦本浙潮-桜井無笛-岡本竹外-前川耕月-小生)
そのような意味でも直接ご恩のある先人ですが
お墓の場所を教えていただいたので今回お参りしてきました。

場所は神奈川県川崎市多摩区南生田8丁目1−1「春秋苑」中7区6側4番

慈徳院殿政覚是三居士 昭和40年10月8日没 行年74才

この日は所用で上京していた弘前錦風流尺八家の藤田竹心師にもご同道いただきました。
先人への感謝を込めて一緒に献奏させていただきました。

旭滝と龍源寺跡

2017年2月21日(火)

長年の夢だった
本曲「瀧落(たきおち)」の発祥地と言われる旭滝と
伊豆に唯一だった虚無僧寺龍源寺(ろうげんじ)跡を
ついに訪問することができました。

伊豆修善寺の大平(おおだいら)神社に車を停めて歩きます。

新しく看板が設置されていました。

きれいに整備された歩道をあるいてすぐ奥に滝があります。

滝の手前には平成5年に修善寺町や
虚無僧研究会等によって建てられた石碑があります。

写真を見たことはありましたが
想像していたより大きくて立派な石碑でした。

旭滝の案内板も新しくなっていました。

まるで人工で造られたかのような不思議な滝、
火山岩の「柱状節理」という作用により
このような姿になっているとのこと。

旭滝に向かって「瀧落」を吹けて感無量でした。

(ちなみに瀧落は千葉一月寺や浜松普大寺より
伝えられたものでここで作曲されたのではない
という説もありますが、まあ正解は謎ですし、
ロマンチックな方を信じたいと思います。
実際に吹いた感じでは旭滝の姿を表している
と思えるフレーズもありました。)

滝の脇には龍源寺虚無僧の墓が残っています。

風化が進みそのうち完全に判読不明になる前に
「普化宗史」と照らし合わせて確認しました。

右側より4世 春山牧水座元、8世 法山志定和尚、
6世 一水芝丈座元、5世 麟翁道麟上座、
開山 廬山一風和尚、?世 廬山不風和尚?
2世 日岩不問座元 の7基でした。

3世 法林印気上座、7世 大光百休和尚
?世 雄山英義 の墓碑は確認できませんでした。

(富森虚山著「瀧落」の中の記述と異なる部分も
ありますが、不明瞭なため分かりませんでした。)

尺八吹きの大先輩へ「調子」を献奏しました。

墓の隣には、石垣が残っています。
ここに龍源寺があったのか、それとも案内板には
本尊を祀った観音堂跡との記述があるので
龍源寺そのものは別の場所にあったのか・・・。

明治5年に龍源寺は廃寺となりましたが
本尊2体は数百m離れた金龍院に移され
現在まで伝わっています。

ちなみにこの金龍院は、
一節切の名手として有名な北条幻庵開基とのこと。

運良く金龍院ご住職がいらっしゃり
龍源寺本尊2体を拝観することができました。

予想以上に大きく荘厳なもので
いにしえの龍源寺の活気に溢れた様子が
匂ってくるようでした。

 

地無し2尺3寸管

2017年2月5日(日)

地無し2尺3寸管が完成しました。
今まで自分で掘った中で最も美しい竹材でしたが
この度ついに旅立つこととなり記念撮影。

せっかくのレアな竹材なので籐巻きで一部装飾を施しました。

飾り籐巻き。
とても手間のかかる仕様ですが工芸的な美しさが目を引きます。

お客様の元に旅立ち、大事にしてもらえるよう願っています。

 

目黒比翼塚

2016年12月14日

虚無僧にまつわる史跡として目黒不動前に残る
比翼塚(心中した男女を弔った塚)を訪ねてきました。

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鳥取藩士平井権八(1655~1679)は父が同僚に侮辱されたのを恨み、殺害して江戸に逃亡。
吉原の遊女小紫と親しくなるも金に困り辻斬り強盗を重ね130人以上を殺害。
目黒の虚無僧寺東昌寺に逃げ込み虚無僧となる。
親にひと目会いたいと虚無僧行脚で鳥取を訪れるも両親は既に他界していた。
観念した権八は江戸に戻り自首、鈴ヶ森で処刑される。
遺体は東昌寺に引き取られたが、遊女小紫はそこで後追い心中する。
権八25歳、小紫21歳、二人の悲恋を哀れみ比翼塚が建てられた。

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この事件が歌舞伎に取り入れられ白井権八という役柄になったとのこと。
虚無僧寺東昌寺は現在比翼塚がある場所から西に200m程のところにあったとのことです。

 

普済寺跡

2016年6月26日

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たまたま三重県を訪れる機会があり、鈴鹿市にある鈴法山普済寺跡を訪ねました。
まずは虚無僧の墓がある場所、鈴鹿市岸岡町にある(株)フジクラの南西角あたりです。
元あった場所から企業の用地買収の際ここへ移されたとのこと。

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三基あり中央が普済寺虚無僧合葬の墓。
手前の二基は不明です。

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正面に「合葬之墓」裏面には「弘化四年丁未七月 看主慙改建之」とあります。
安政5年(1858)9月21日没の慙改止善居士が弘化4年(1847)に建てたもののようです。

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合葬の墓右側面には「明治八乙亥歳十二月廿四日 普済晋堂信士」
と普済寺最後の看主の墓碑が彫り加えられています。
明治6年の普済寺廃寺後、他県へ移られた普済家のご子孫が
今でもお盆の時期にお墓参りにいらっしゃっているとのことです。

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墓より数百m南のこのあたりに普済寺があったようです。

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普済寺廃寺後に跡地を買い取り、戦時中は旅館を営んでいたという
ご一族の現当主K氏にお話を伺うことができました。
先代からの言い伝えとして上記写真の石垣、石材等が
普済寺の遺物ではないかとのことです。

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もう一つ、平成26年に発行された「玉垣郷土史」の中に
鈴鹿市白子龍源寺に普済寺虚無僧の墓があるとの記述を発見(!)
普化宗史(高橋空山著)にも名前が載っている「淵宝暫計首座」の墓です。

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確認に行きましたが近年の墓地整理により行方不明に・・・。
たぶんこの寄せ墓の中にあると思うのですが確認できませんでした。

普済寺伝とされる「手向」は好きな曲なので
今回の訪問はとても感慨深いものとなりました。

(甲州乙黒明暗寺伝とされている「鑁字(ばんじ)」を
後年自身の作曲だと白状したり、
高橋空山一人から出ている説は信憑性に欠ける場合があります。
「手向」を普済寺伝だと広めたのは高橋空山のような・・・。
そう言われてみると高橋空山のメロディーセンスが匂うような・・・。
高橋空山作曲だとしても名曲だと個人的には思いますが
普済寺伝と思って吹いた方が虚無僧のロマンに浸れるので
そこら辺はあまり突っ込まないことにします(笑))

追記
鈴鹿市在住の方より教えてもらった話。
普済寺のあった岸岡町は紀州藩の鷹狩場で
普済寺はその密猟を取り締まる役目を与えられていたとか。
箱根以西には数の少ない虚無僧寺ですが
何で鈴鹿にポツンとあったのか謎でしたが、
そういう理由があったのだとしたら納得。
虚無僧と徳川家の繋がりを暗示する内容としても興味深い説です。

 

虚無僧研究会総会 2016

2016年4月29日

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虚無僧研究会の総会に出席してきました。

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今年の講演は長谷川佳澄女史による「近江国における虚無僧取り締まり」。
琵琶湖周辺における京都明暗寺と浜松普大寺の縄張り争いについて
古文書から読み解ける実態を解説していただきました。
いろいろと謎の多い虚無僧という存在ですが、村とのやりとりの文章から
リアルな人物像が浮かび上がってくるようでとても興味深い内容でした。

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別室では浜松普大寺に関する資料展が催されました。
同寺に関する古文書や現在の跡地の様子など豊富な資料が展示され
会員の皆さんが熱心に見入っていました。

 

ミニ篠笛作り

2016年3月19日(土)

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毎年ゴールデンウィークに催される益子春の陶器市での演奏と笛売り、
いつも間近に迫ってから慌てて商品の製作をしていたのですが、
今年は少し早めに準備を始めました。

まずは一番時間と手間のかかる漆仕上げのミニ篠笛、
昨日皮むきと下作りを終えた笛にこれから拭き漆を施していきます。

漆を塗っては拭き取りを何度も繰り返して色と艶を出していく拭き漆の技法。
手間はかかりますが見事な美しさに仕上がっていくので楽しい行程です。

 

謹賀新年! 竹掘りに行ってきました

2016年1月1日(金)

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正月休みを利用して尺八用の竹掘りに行ってきました。

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太さや節の長さ、曲がり具合など尺八に使える竹はめったにありません。
(プロの木地師さん曰く、売り物になるレベルは1日探しても平均2、3本だとか)
やっと見つけられたら根切りという道具で竹を根っこごと掘り出します。

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地中に伸びた地下茎から竹が生えるのですが、地中にあるこれを断ち切るのが一苦労。
無理をして抜こうとすると竹が根っこから裂けてしまうので注意が必要です。

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地上に飛び出した地下茎。
地上に伸びた竹を切っても、地下茎が生きている限りまた新しい竹が生えてくるので、竹の楽器は環境に優しい楽器だとも言えます。

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本日の収穫。
この中から1本でも名器が生まれることを願って。

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近くの川原で一休みしてから帰途へ。
今年もがんばって楽器作りに励みます!

 

虚無僧研究会総会2015

2015年4月29日(水)

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虚無僧研究会の総会に出席してきました。

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会計報告や事業報告が終わった後は
「竹を吹く人々-描かれた尺八奏者の歴史と系譜」の著者
泉武夫氏による「絵で見る尺八吹きの系譜」と題する講演が行われました。

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各時代に残された絵画資料から、
どのような人々がどのような尺八を吹いていたのかを検証するというもの。

一例として、江戸時代には虚無僧のみに許されていたとされる尺八も
実際にはそれ以外の人々にも広く吹かれていたことが分かる図画があったり。

文献資料では虚実ないまぜになっている尺八の歴史ですが
絵画資料を通して真実の一端が明らかになるというとても興味深い講演でした。

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別室では、普化尺八(虚無僧尺八)の祖、普化禅師の資料展が催されました。

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「臨済録」に登場し、ともすれば主役の臨済以上の強烈な存在感を示す風狂の僧、普化ですが
「普化は行化に際し、常に鐸(たく、ハンドベルのような鈴)を打ち鳴らしていた。
その鐸の音を慕った居士張伯が尺八でそれを移し採り、代々の子孫へ伝えた。
張伯から16代後の張参が、ちょうど宋に留学しに来た法燈国師覚心に伝え、
覚心が帰国と共に尺八を日本に伝えた。」
というのが江戸時代の書「虚鐸伝記国字解」に記された日本への尺八伝来説です。

実際には歴史的事実ではなく、後世の創作のようですが
それでもやはり普化はいつの時代も尺八吹きにとって憧憬とロマンの対象なのです。

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各地の虚無僧寺に伝えられた普化像

山形臥龍軒伝

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博多一朝軒伝

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松戸一月寺伝

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甲州乙黒明暗寺伝

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越後明暗寺伝

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越後明暗寺月潟番所伝

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そしてここ法身寺に伝わる普化禅師像
(法身寺は虚無僧寺青梅鈴法寺の江戸番所の菩提寺であったため
貴重な遺品が伝わりました。)

→虚無僧研究会HP

 

明暗蒼龍会総会2015

2015年2月7日(土)

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明暗蒼龍会は故岡本竹外師により昭和58年に創設された普化尺八の会です。
年に一度の総会がKKRポートヒル横浜にて行われたので参加してきました。

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会計報告や年間活動予定についての討議、全員や希望者による尺八演奏、
その後の懇親会と和やかな雰囲気の中無事に会が終わりました。