2013年11月3日(日)
たまたま岩手県で演奏の予定が入ったついでに、
宮城県北部にあった虚無僧寺「金成寺(きんせいじ?きんじょうじ?)跡」と
同寺虚無僧の墓、また同地出身で明治時代に活躍した尺八の名人
小野寺源吉の墓を訪ねました。

まずは写真の右側のお宅が金成寺跡地です。
昭和20年前後までは小庵のような建物が残っていたとのこと。
金成寺は地元では開山虚無僧の名を取って「三慶坊」と呼ばれ、
それに因んで写真中央の小路は地元では「三慶坊横丁」と
呼ばれているそうです。

近くにある金成寺の菩提寺、曹洞宗龍国寺。
普化宗を名乗る虚無僧は正式な僧侶では無かったため
虚無僧寺では正式な葬儀は執り行われず
そのため高位の虚無僧が亡くなると
菩提寺となる近くの寺に葬られました。

金成寺虚無僧の墓石、右から
「三慶知源上座 天明3年(1783)」
「圓翁三慶上座 寛延4年(1751)」
「威菴仲光上座 天保12年(1841)」
「華三慶巌上座 享保14年(1729)」
高橋空山「普化宗史」にあるように龍国寺の過去帳には
金成寺歴代の名が記されていましたが
実際の墓石は2008年頃、龍国寺ご住職によって
墓山の土の中に埋もれていたのを発見されました。
(2012年10月13日に尺八研究家神田可遊氏他4名の
方々が墓石の掘り起こしと整備をして下さったとのこと。感謝!)

同じく龍国寺に残る小野寺源吉の墓。
小野寺源吉は安政6年(1859)11月18日
現在の宮城県栗駒郡金成町中町の油屋に生まれました。
明治天皇が東北巡幸で金成に立ち寄った際に御前演奏をした
その際に天皇から帽子を下賜された
空飛ぶ鶴を空井戸の中から尺八の音で落とした
などの逸話が伝わっています。

小野寺源吉師の遺影。
明治20年頃虚無僧修行で立ち寄った弘前で
錦風流の折登如月らに伝えた曲が
「源吉伝鶴之巣籠」「宮城鈴慕(松巌軒鈴慕)」として
現代まで伝承されています。
大正9年より娘の住む北海道に移住し托鉢や尺八教授
三味線を弾く養女との巡業などを行っていたようです。
昭和3年(1928)4月15日没、行年69歳。
ちょうど先日、わが師前川耕月先生に
「宮城鈴慕」を教えていただきました。
音と共に、それが伝承されてきた歴史を学ぶことで
曲に対する理解を深められたらと思っています。
また次回、墓前で恥ずかしくない献奏をさせていただけるよう
小野寺源吉師伝曲の稽古に励みたいと思います。
参考資料
「尺八評論4、5号」「新尺八評論3、4号」(神田可遊)
「小野寺源吉の生涯」(今川一閑)